2011年03月12日

阪神タイガースにやってきた助っ人投手 ジーン・バッキー

「現役時代の姿は知らないけれど、一度、そのプレーを見てみたかった」という選手がいると思います。

私にとって、ジーン・バッキーは、まさにそういう選手です。

バッキーは、おそらく、タイガースファン、ならびに、ある年齢以上のプロ野球ファンならよく知っていて、しかも今もなお強く記憶に残っている助っ人外国人選手ではないのでしょうか。

私自身は、残念ながら、バッキーの現役時代の姿を知りません。

引退後、何度か日本に来たときの姿をテレビで見たことがありますが、長身で、横幅もあり、かなり大柄な人という印象があります。

今、現役時代の映像を見てみると、かなり背が高く、思いのほか、スマートです。


1962年に阪神タイガースにやって来ますが、テスト入団だったみたいですね。

これは意外でした。

1年目は、8試合に登板、0勝3敗、防御率4.70という成績ですから、やはり、入団当初は、実力的にはもうひとつという助っ人外国人だったのでしょう。

それが、3年目の1964年に、大ブレーク。

46試合に登板、29勝9敗、防御率1.89という成績を残しています。

この年、最優秀防御率、最多勝利のタイトルを獲得、ベストナイン、沢村賞に選ばれています。

それにしても、1シーズンに46試合も登板して、投球回が353.1というのはすごいですね。

この当時のピッチャーは、今よりもずっと短い登板間隔で投げていたそうですが、それにしても多いですね。

ちなみに、昨年のセパ両リーグの投手を見てみると、セリーグでは広島の前田健太投手が、28試合に登板、215.2投球回。

パリーグでは、オリックスの金子千尋投手が30試合に登板、204.1投球回。日本ハムのダルビッシュ有投手が26試合に登板、202投球回となっています。


また、この1964年に、阪神タイガースは優勝しています。

この年のチーム成績を見てみると、チーム防御率がリーグ1位である一方、チーム打率がリーグ5位ですから、1985年の優勝時のチームとは反対に、投手力優位のチームであったようですね。

ということは、阪神タイガースの優勝にかなりバッキーが貢献したということでしょう。


バッキーは、1964〜68年まで、5年連続で2桁勝利をあげています。

また、1965年には、ノーヒットノーランを達成しています。


バッキーに関するエピソードとして、触れないわけにはいかないのが、1968年の対巨人戦での、バッキーが投じた、王貞治選手への危険球がきっかけで起こった、乱闘事件でしょう。

この試合、バッキーは、第1打席で王選手に対して死球を与えていました。

その後、第3打席、初球が王選手の頭部付近を通過。

そして、2球目も身体付近を通過。

さすがの王選手も、バッターボックスを出て、マウンドへ歩み寄ろうとしたところ、両軍の選手、コーチが駆け寄り、もみあう事態に。

その時、当時巨人のコーチだった荒川博氏がバッキーに詰め寄ったところ、バッキーが荒川氏にパンチを見舞い乱闘に。

荒川氏とバッキーの2人が退場することになりました。

その後、バッキーと交代で登板した、阪神タイガースの後藤正利投手の投じたボールが、なんと、王選手の頭部に直撃。

再び両軍入り乱れての乱闘騒ぎに。

試合再開後、その騒ぎをネクストバッターサークルで見つめていた長嶋茂雄選手が、次打者として打席に立ち、ホームランを放って、両手を挙げてホームインしたエピソードは有名。

でも、実は、王選手とバッキーは、お互いの家を訪ねるくらい仲が良かったとのこと。

新聞のコラムで、王氏がそのように語っているのを読んだことがあります。


残念なことに、その乱闘の際、バッキーは、右手の指を骨折。

それが原因で、選手生命を縮める結果となってしまいました。

翌1969年に、バッキーは、近鉄バファローズに移籍しますが、思うような結果を残せず、その年限りで引退することになりました。

通算8年間で、251試合に登板、100勝80敗、防御率2.34という成績でした。




ジーン・バッキー

1937年8月12日生まれ
アメリカ ルイジアナ州出身
191cm 91kg
右投げ右打ち
投手

阪神タイガース 1962〜1968
近鉄バファローズ 1969

posted by 野球少年 at 00:00| Comment(0) | 外国人投手編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。